新選組の名称の由来

「新選組」とは、寛政年間に存在した会津藩の精鋭部隊の名称で、武力に優れた藩士の子弟で構成されていました。 
文久3年(1863)、八・一八の政変で活躍が認められた「壬生浪士組」に対し、
京都守護職(会津藩主) 松平容保公より「新選組」の名が正式に与えられました。
 



会津新選組隊長・新選組三番組長

斎藤一(山口二郎・藤田五郎)

新選組三番隊組長で副長助勤を務めた。 
戊辰戦争では鳥羽伏見の敗戦後、江戸を経て、会津に集結した新選組を再編、
宇都宮の戦いで負傷した土方歳三に代わり「会津新選組隊長」となった。

白河城攻防戦や会津国境 母成峠で戦い、後に土方歳三と別れて、
一部同志とともに最後まで会津に残留し戦い、会津藩士 一戸伝八として降伏した。 

明治7年頃に元会津藩大目付 高木小十郎の娘 時尾と結婚、
このときの下仲人が山川大蔵()と佐川官兵衛(いずれも元家老)で、本仲人が元藩主 松平容保だったという。 
藤田五郎と改名、大正4年9月28日に72歳で没した。




「会津新選組隊長 藤田五郎(斎藤一)・時尾夫婦の墓。 
JR七日町駅前の阿弥陀寺(当館より徒歩2分)に御座います。





版画「会津藩本陣 京都 金戒光明寺の絵図」




「伝 新選組筆頭局長 芹沢鴨の鎖帷子」




「新選組監察 山崎から二番組長 永倉新八宛の書状」








「新選組隊士 佐野七五三之助(源忠正)の書」





錦絵「江戸城桜田門外の変」大蘇芳年画






錦絵「京都 禁門(蛤御門)の変」小林清親






錦絵「鳥羽伏見の戦い  会津藩 宮崎市五郎」大蘇芳年画





錦絵「徳川慶喜公 天保乗船図」大蘇芳年画







会津 娘子軍の奮戦「中野姉妹 柳橋出陣の図」渡部雅堂画






「白虎隊 飯盛山自刃の図」浅井応翠画





錦絵「会津若松戦争の図」大蘇芳年画






錦絵「会津藩降伏の図」






幕末に活躍した洋式銃

上から「火打ち式 ゲベール銃」
ゲベール銃(ヨーロッパ製)
「ヤーゲル銃(日本製)
「シャープス騎兵銃(アメリカ製)

「スペンサー七連発騎兵銃(アメリカ製)








白虎隊の母校「会津藩校 日新館教科書」








北越戊辰戦争「朝日山攻略 新政府軍配置図」








同盟軍「長岡藩家老 山本帯刀書」









新政府軍「長州藩 山縣有朋書」

新政府「太政官高札(王政御一新) 慶応四年三月」





「戊辰戦争使用の大砲弾丸」






新政府軍「長州 長府藩報国隊旗」







新政府軍 「長州藩将校着用の白熊(はぐま)







新政府軍「薩摩藩大隊旗」






※ここでご紹介したものは当館所蔵品のほんの一部であり、
入れ替え等により実際の展示物とは異なる場合がございます。



               



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